自分のことは棚に上げてね

 昨日、書きかけて書けなかった「キャラクター」と「キャラ」の話である。

 かつてテレビ(やラジオ)には個性的な人たちが明滅していた。大橋巨泉然り、大島渚然り、野坂昭如然り、岡本太郎然り、立川談志然り(以上敬称略)。タモリさんもそのひとりである。

 それは演出された個性というよりは、もう中からハミ出しちゃっている個性だった(気がする)。中から出ちゃってるので時として実に扱いにくかったに違いない。でも、見る方はスリリング。「11PM」や「朝まで生テレビ」が「生」であることの意味はそこにあったと思う。

 それこそは「(その人にも番組にも)キャラクターがある」と呼ぶに相応しい状態と申しますか。

 ところが、今はテレビに出るためには「キャラ」を設定しなくてはいけないのである。わかりやすく言えば、昔はゲイの方がテレビに出ていると単に「オカマが出ている」ということだったわけですが、今は「おねえキャラ」という「枠」があって、そこに出られる「キャラ設定」になっている気がするわけ。他にもいろいろ設定されている。いじられキャラ、いじめキャラ、切れキャラ、デブキャラ、ハゲキャラ。最後のふたつはワタシにも可能性はなくもない。ただ、一貫性を持って演じきれないだけである。

 テレビ番組の短い時間で「何か面白いことを言う」ということが求められる。その「面白いこと」は、かつての「キャラクター時代」には「内面から出てくる面白い(または突飛な)発言」でよかった。しかし、今はそれを「ネタ」と呼ぶ。そのネタの切れ味も求められ、瞬発力も求められる上に、前に出る才も、愛される才も、そして「キャラ」がハッキリしていることも求められる。フツーではないのである。フツーに素でいられる瞬間は欠片もない。たいへんだ。たいへんだから作家さんが「キャラに相応しい」台本を用意してくれたり、打ち合わせしていたりするに違いない、と思える番組もある。

 どの辺からそうなったのかな。いやあ、だいぶ前からか。欽ちゃんの番組あたりがかなり怪しい。よい子悪い子普通の子。松田聖子的「ぶりっこ」とか、欧陽菲菲的&アグネス的「たどたどしいキャラ」も怪しい。もっと遡れば始まったばかりの「笑点」で司会(兼プロデューサー役)だった談志家元が、それぞれの落語家さんにキャラ設定を割り振ったというエピソードは家元の本で読んだ。あ、そう考えると「クイズダービー」あたりもね。

 つまり、ずっとそうだったのか。だとすれば、今は「それしかない」気がしているだけかもしれない。

 何が言いたいかというと、ま、よくわからない。これがテレビのことだけではなくなっているように思えるから書いてみて考えているだけのことであります。

 例えば、昔ながらのおじちゃんがやっている居酒屋にはキャラクターがあるけれど、チェーンの飲食店は必死でキャラを作ろうとしている、というようなことです。コンセプトとか言って。

 エイミー・ワインハウスは「コンセプト」ではないはずであります。風体にはコンセプトあるけど。かしこ。