深夜の止まり木にブラックバード


 ある立呑みでホッピーを飲っていたのである。ひとり呑みに出向いて助かるのは、遠くにでもいいのでチラチラっとテレビがついていたりして、ちょこちょこソレを肴にできることだったりする。その店は旧式な小型テレビがカウンターの向こうの、冷蔵庫の上にある。そこでDVDを流しているのだ。映画である。たいていは洋画の、ちょっと男臭い作品が多いような印象がある。『グラディエーター』とかね。ホッピーとせせりと煮込みに隆々としたラッセル・クロウが、ま、合うと、思っているわけですよ、たぶん。


 I am Sam/アイ・アム・サム [DVD]


 ところが、その日のその時間の上映作品が『アイ・アム・サム』だったのだ。ショーン・ペンの。そして何よりダコタ・ファニングの。うわあ、それ? 煮込みに? 当然、音は消してある。BGMがガンガン鳴っている。でもね、日本版だからさあ、字幕出るじゃないの。わかっちゃうんですよ、ストーリーがリアルに。最初はですね、あえて見るともなしに見ていたわけであります。だってさあ、きっちり見だしたらさあ、思い出しちゃうじゃない。ゼッタイ泣くぞ。おっさんがひとりで立呑みのカウンターでホッピー握りしめて泣いてるって、どうなんですか。


 見ちゃったのである。音がないだけにさらに集中したと言ってもいいガン見であります。見ちゃわざるを得ないのである、だって『アイ・アム・サム』だよ。ダコタ・ファニングのルーシーのけなげな台詞が字幕となって出るたびに、裁判所でショーン・ペンのサムがいらんことを言うたびに、ミッシェル・ファイファーもダイアン・ウィーストも登場人物全員が傷ついていることを思い出すたびに、ホッピーが入った、正確に言えば黒ホッピーが入ったジョッキの柄を握りしめながら。


 そしてワタシは気づいたのだ。これは親子の映画だと思っていたけど、違っていた。もちろん映画では親子=サムとルーシーなのだけれども、それはすべての「サム」=大人になりきれない自分が、心の中にある「ルーシー」に思いを馳せるための映画なんじゃないかと。それは人ですらないのかもしれない。大切にしていたはずなのに失っていた。大事にしたいのにうまくいかない。愛しているのに離れなければならない。そんな「ルーシーを守れないダメな自分」の孤独を掘る映画なのではなかったか。つまり、「私はサムである」と。


 映画のエンディングを待たずにホッピーはソト1本でナカミ3回まわってしまった。頬を伝うお湿りも、ひどい土砂降りもなかった。もう一杯呑もうかと思って、やめた。デッド・オブ・ナイトの散歩をして、ルーシーのことでも考えよう。Blackbird Singing In The Dead Of Night。ちゅんちゅん。スズメだろそれは。


 いやまあ、公開時にはこんなことは思わなかったわけで。どこで物語に出会ってしまうか、油断も隙もないわけで。酔ってるって面白いね(笑)。



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