天国でもシベ超撮るんだろうなあ

代替文


 水野晴郎さんの御冥福をお祈りいたします。ナンシー展会場になにかメッセージを出すべきでしょうか。べきかなべきかも。明日起きてから相談しよっと。


 シベリア超特急 水野晴郎=山下閣下 ソフビ・フィギュア(通常版) シベリア超特急 特別編集版〈豪華愛蔵仕様〉 [DVD]


 起きました。敷ちゃんからの命令もあったので、出すべきということにしました。おっす。
 ちなみに本日、6月12日はナンシー関さんの命日であります。うっす。


【追悼追伸】

 すべて「ホメ言葉」だと思っていただきたいのである。

 あらためて水野晴郎さんの経歴を見てみると、1972年10月4日に当時の「水曜ロードショー」の解説を始めたとある。水野晴郎41歳、渡辺祐13歳。映画館にも通い出した頃だが、なんと言っても映画のモノゴコロをつけてくれたのはテレビの洋画劇場。モノゴコロの初っ端に晴郎あり、なのである。もちろん吹き替え好きの原点も。

 その頃から子供心にどうも「怪しい」と思っていたのだ。水野晴郎さんの、あの下ぶくれでオシャレヒゲな様子は、どうもただ者じゃない。「映画ってほっんとうにいいものですねえ」という口調も。そういやあ、淀川長治さんも優しいおじいさまではあるが、どこか粘着性のあるマニアックなトークが、なんかこう、普通じゃない。増田貴光さんは気取りっぷりがヘンだしなあ。またあなたとお逢いしましょう。

 思えばコドモが「11PM」を見るなんて御法度の頃である。ま、隠れて見てはいたけれどね、えへへ。その時代にあって、映画と歌謡曲こそが「オトナの世界」だった。 そう。ワタシは映画本篇のみならず、その解説陣の風貌風采語調口調に「オトナの世界」を見ていたようなのである。

 後に増田貴光がスキャンダルにまみれ、淀長の生涯を知るようになり、そして水野晴郎が『シベリア超特急』を撮るに至って膝を打った。やっぱり少しヘンだった。やっぱりどこかが怪しかった。

 それが「映画」の魔性であり、業なのではないかと思えるようになったのである。当然、人間の業でもある。

 そういえば、まさに1972年から73年頃。ワタシは中学の同級生と一緒に勝手に壁新聞を発行していたのですね。模造紙に定規で線を引いて段組を作って、そこにマジックで「次週、水曜ロードショーに『イージーライダー』登場!」とか「おすすめマカロニ・ウェスタン」とかの記事を書いて、勝手にクラスの壁に貼りだしていたのである。今とやっていることがちいとも変わらん、という話は前も書いたか。その行為に長治の、晴郎の、貴光の、さらにはおばちゃまの、雄二の影響がないわけがない。いろんなことしてたなあ。ラジオ番組も作ったし、8ミリ映画も撮った。番組は谷村新司セイヤング風で、映画は「オープニングしかない太陽にほえろ」である。とほほほほ。

 そうやってオトナの階段を上っていったわけであります。でまあ、現在48階まで上ってみたんですが、上るべき階段がこれでよかったのかどうか(笑)。

 以上です、山下大将!

 
 ライツカメラアクション「ライツカメラアクション」by スチャダラパー



人気ブログランキングへ