昨晩は恵比寿で餃子喰いました

代替文


 桜新町の通りは名前の通り、桜の並木が続く通り。計画されていたのでしょう、咲く時期をずらす工夫もあり、いま八重桜が散りに散る頃。雨の車道にクルマの跡を残してピンクの絨毯。走り去ったクルマもピンクだったに違いない。


 餃子の話の続きである。おやまたかい。


 ワタシの水餃子好きのルーツは明らかに母方の祖父にある、と思われるのであります。明治生まれ、満州鉄道勤務の引揚げ組。盛岡の岩手日報横で喫茶店を独学経営した後、晩年はワタシの居た実家に同居。隠居老人の暇に飽かせて囲碁を趣味とし、白菜を大樽に漬け、そしてたまに水餃子などを作っていた。死ぬまで毎日二箱は煙草を飲んで晩酌にキのままで焼酎コップ一杯。
 当然、母も旧満州生まれ。となると北京仕込みの本格っぽいが、皮は市販のものを使っていたような記憶。いずれにしても焼かずに「水」。


 焼き餃子の強烈な記憶は、幼き頃に町田にあった、現在その店名を書くことができない店の焼き餃子。思い出すだにあれは旨かった。子供にゃご馳走。なぜ「現在その店名を書くことができない」のかといえば、そのお店の名前がアフリカン・アメリカンに対する差別用語だったから。カタカナだったと思うんですが、「ク」で始まる言葉で、店頭にはアフリカン・アメリカンのコックさんをイメージした絵が掲げられていた。中華料理だけど。1960年代、昭和40年代末の話である。すぐそばに米軍補給廠や相模大野の米軍病院、座間キャンプがあったのにねえ。ヴェトナムの戦争のそばで育ったのである。いずれにしても旨かった「焼」。


 皮まで作る、というのは、なかなか大変であります。我が実家ではそこまではしていなかったのだが、立川談志家元は作っている。いや、見たわけじゃありません。今、手元にある『秘蔵版・談志喰い物咄』(講談社)によると、であります。


 食い物を粗末にするな―「並の日本人」の食文化論 (講談社プラスアルファ新書) ←ワタシが所有しているのは、この本の限定“改題”秘蔵版也。

 家元、わが家にいて暇な時に、よく「うどん粉」を練っている。
 あれは面白い、白い泥んこ遊びみたいなところもあり、固まってくると、何とも言えない手触り、肌触りがある。
 (中略)
 これを取り出して、サテ、何を作ろうか、「餃子」よし、「雲呑」もいい、東北は盛岡地方で言う、「ひっつみ」も美味い。ごくシンプルに「すいとん」も充分楽しめる。
 (中略)
 メリケン粉を鍛えに鍛えている楽しさ、面白さ、手触り、肌触り……(また始まった)。
 家元の冷蔵庫には、常にこのメリケン粉の練り上がりが入っているから、少なくとも餃子の皮を買ってくるようなことはしない。
 
 (立川談志『秘蔵版・談志喰い物咄』より)


 うむ。意外なヒトがうどん粉をこねているものなのである。談志厨房に入る。



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