RADIO LOVERS(∞)

代替文


 ああ、いろいろ邪魔がはいってblogにたどり着くまで時間がかかったぜ。今日は「ディスクジョッキーの日」。伝説のDJ、糸居五郎さんの命日です。


 天気のいい木曜日。クルマにて出社。途上でニッポン放送の「うえやなぎまさひこのサプライズ!」にチューニング(クリ智ごめん!)。そしたらやにわに糸居五郎さんを回顧するコーナーがスタート。ニッポン放送だからそのコンテンツ自体は当然としても、あまりにタイミングが良すぎてクリビツ。偶然の必然。ココロはどこかでつながってます。うえちゃん、いい語り口ですね、相変わらず。うえちゃん、いま何時?
 関係ないけど、その後、事務所にて「ラジオビバリー昼ズ」(TAROくんごめん!)。今日は高田文夫先生の相方は清水ミチコさん。そしたら清水さんが「スチャダラパーのボーズくんに誘われてカラオケに行った」っていうエピソード披露。そのメンバーがこれまたクリビツですよ。ボーズ、清水ミチコ田島貴男、ビッケ、ピエール瀧森山直太朗……ですって(以上敬称略)。うひょう。清水さん、ユーミンに化けて田島氏とデュエットした模様。閑話休題


 ワタシが糸居五郎さんを初めて聴いたのは中学生の時。70年代中盤。そうです、もちろん「オールナイトニッポン」。「君が踊り僕が歌う時、新しい時代の夜が生まれる。太陽のかわりに音楽を、青空のかわりに夢を。新しい時代の夜をリードする、オールナイトニッポン!」(BGMはもちりん「ビター・スウィート・サンバ」)。テーマに乗って糸居さんの名調子。「深夜の音楽ファン、糸居五郎です。ゴーゴーゴー・アンド・ゴーズオン!」。
 ターンテーブルを自分で回しながらしゃべった本格ディスクジョッキー。選曲も資料も全部ひとりで用意した伝説のラジオマン。50時間マラソンDJ(800曲以上をひとりで回した!?)もスーツ姿でやりきったジェントルマン。


 その糸居さんに二度ほどお会いしたことがある。1981年、宝島編集部アルバイト・エディター。←そんな肩書きあるのか。糸居さんが表紙&巻頭ロング・インタヴューの号を作ったのだ。インタヴュアーは加藤芳一さん。写真は伊島薫さん。忘れもしない糸居さんの広尾のご自宅マンション。ニッポン放送を60歳で引退しての取材。なのに糸居さんはずっと「海の上に船を出して海賊放送がやりたい!」と夢を語っていたのを覚えている。60歳からの海賊放送。しかもこないだまで社員だったのに! どこまでもどこまでも度し難いラジオ好きなのだ。ラジオ好き無限大。
 取材のラストに糸居家のリヴィングに飾られた、行ったことのある土地にピンが刺してある、そんな素敵な世界地図の前で写真を撮らせていただくことになった。 糸居さんが「ああ、ちょっと待って」と言って奥の部屋に消えていく。すでにスーツ姿(ネクタイも着用)だったのだけど、撮影用に着替えるのかなと思って待っていると、そのままの糸居さんが戻ってきた。「いやあ、スーツに部屋のスリッパじゃねえ」と笑っている。そう、糸居さんはピカピカの革靴を取りに行っていたのである。感動した。大人を見た。ちょっとしたことだけど、お洒落なんてことを知らなかったワタシ(23歳)には衝撃だった。しかも、糸居さんは去り際に「雑誌ができたら食事をしましょう」とご自宅でのディナーにも誘ってくれたのである。


 実はその時、ワタシは糸居さんに大胆なお願いしてしまったのだ。当時、行きつけだった阿佐ヶ谷のソウル・バーのマスターが大の糸居ファン。昔は海外航路の貨物船でコックをしていて、外国の港からリクエストハガキを書いていたという。船がニッポン放送が届く海域に入ると「オールナイトニッポン」を聴いては、自分のハガキが読まれるのを楽しみにしていた、そんなおじさんである。もちろん面識はない。ただのリスナー。でもね、こういう機会に勇気を出してみたらいいじゃん、と世間をなめていたワタシは、思い切って糸居さんに「大ファンの知人に会ってもらえませんか」と申し出た。迷惑だったかもしれないけれど、糸居さん快諾。ワタシは、そのマスターこと前山さん(緊張のあまりスーツ姿)を糸居家のディナーに同伴したのだ。


 当日。おずおずとリヴィングに入るワタシたち。
渡辺「あの、こちらがお話ししたマスターの前山さんです」
前山「こんばんわ、いつもリクエストしていた前山です(語尾震え気味)」
糸居「え? 前山くん? 船からリクエストくれてたでしょ?」
前山「あ、あぐあぐ、そ、そうです!」
糸居「(キッチンの奥様に向かって)おーい、前山くんが来たよ! ほら船からリクエストくれた!」
奥様「あら、まあ。この方が前山さん? ようこそ!」


 この時点で前山、渡辺、そして宝島編集長、全員卒倒。だって覚えてるんですよ、いちリスナーのことを。それどころか、奥様も覚えてるんですよ。どんだけリクエストが来たことかわからない人気番組のDJが。
 しかし、事態はそれどころじゃなかったのである。「じゃあ、あれ持ってきて(笑顔)」と糸居さんがおっしゃる。奥様は、「ああ、あれね(笑顔)」といった感じで出て行く。どうやら地下にあるトランクルームに行かれた模様なのである。
 奥様が戻ってきた。そこに手にしていたのはハガキが入るファイルだった。な、なんとですね、ぶ厚いファイルに、一枚一枚、リクエストハガキがファイリングされているではないですか! ええ? それって膨大な量じゃないんですかあ! そんな若造の心配をよそにパラパラめくる糸居さん。「ほらほら、コレ、前山くんの。あ、こっちにもある」。
 前山さん、茫然自失。そりゃそうなのだ。十年ぶりぐらいに自分が書いたハガキと再会してしまったのである。その後、食事をしたはずなのだけど、味もなんにも覚えてない。なにしろ目の前でおっさんがひとり、ずっと号泣したまま食事をしているんですから。


 1984年に糸居さんが63歳の若さで亡くなった時は、一緒に音楽葬に列席させてもらいました。
 そう言えば、その取材の時、糸居さんにジェームス・ブラウンと撮った写真も見せていただいたのも覚えている。当時は外タレのコンサートには「司会」がいたのだ。糸居五郎さんはその方面でも大活躍だったそうだ。そういやあ、JBを初めて聴いたのも糸居さんの番組だったかもしれないのですよ(J-WAVEのサイトのコラム参照してください)。末端ながらラジオの仕事をしている因果には「糸居さんの記憶」がある。あんな風にはできないけれど。なのでこの原稿も恥ずかしいけれど。書いちゃったから、まあ、いいや。
 最期まで海賊放送を夢見た人。仕事を生きた人。生涯現役。糸居さんも、そしてJBも。