いい事ばかりはありゃしない


 ……というタイトルで2006年7月にJ-WAVEのサイトに書いた、というか書いてしまった駄文再録。
 忌野清志郎さんが長期療養を発表した直後の、思いあまっての個人的な原稿なので、ま、長くていけませんが、「復活」の日がきた記念ということで。「よォーこそ」をナマでまた聴いてしまった翌日だからということで。笑って許してん。

 あ、ちなみにセットリストはコチラのblogがよろしいかと。


 RHAPSODY NAKED (DVD付)RHAPSODY NAKED
(このライヴ盤を1980年当時聴いたことがすべてのはじまりです)

渡辺祐駄文蔵出し「ねずみ穴はやったんべえな」】


「いい事ばかりはありゃしない。」


 大変なことになったのである。ジダンじゃないですよ。あれはあれで大変だけど。中村獅童? それもまた大変だけど。慌ててみても始まらない。落ち着こう。深呼吸だ。すうはあすうはあ。落ち着きました。何が大変かと言えば忌野清志郎さんである。

 なにしろココロのボスなのである。ボスが喉頭癌なのである。ワタシに何ができるわけじゃない。だから今日は清志郎さんのことを書いておこうと思う。

 ワタシはこう見えても業界歴が長い。いや、そう見えると言われればそれまでですが。話は1979年に遡るのである。ワタシはかなりインチキな大学生。学校に行かずにバイトしてはその金で飲んでるだけの酒とバイトの日々。500円で酔える店なら詳しかった。そのインチキついでにインチキなサークルをでっち上げて学祭に参加していた。ワタシが後に中退することとなる早稲田の学祭は、当時は自治会によるストライキ封鎖という方式で開催されていた。つまり学生が勝手にバリ封鎖して仕切っているので、仕切ってる人たち(ま、ぶっちゃけ革命好きの人たち)と仲良くなれば教室が取れそうだ、という話で「なんかやろう」ということになったのである。

 なんかやるったってサークル自体がそのためのでっち上げなのだから、自分たちがやることは何にもない。畢竟、自分たちが見たい人たちを呼ぶ、ついでに少し儲かれば御の字という、20歳ぐらいのヤツが考えそうな虫のいい企てとなった。まず一年目は、ジャズ好きだったワタシと仲間数人で西荻窪アケタの店に行って店主でありピアニストの明田川荘之さんに出演をお願いした。フリージャズである。出鱈目に面白かったがお客さんは入らなかったような記憶がある。ついでに当時は「劇画アリス」というヤバい雑誌の編集長だった亀和田武さん、そして伝説の絵本作家・長谷川集平さんも呼んでトークショーもやった。実はその時に椎名誠さんにもお願いに行ったのだが、まだ作家専業になる前のサラリーマン時代だったので丁重にお断りいただいた。その時に新宿のライオンで椎名さんにビールをおごってもらった。我ながら貴重な体験である。

 次の年も懲りずにジャズだということになった。ならコレだよね、とでっちあげサークル満場一致で生活向上委員会に決定した。略して生向委(せいこうい)。その時点で9人編成(もっと多かった時期もある)のフリージャズオーケストラ。やっぱりアケタの店に出演している時に頼みに行った。マネージャーと意気投合して出演OK。はりきってポスターも金かけて印刷した。ライヴは出鱈目に面白かったのだが、あんまりお客さんが入らなかった。ついでにステージで豆腐を投げたりするので(どういうバンドかわかってきたかな)モニターに豆腐が飛んでえらいことになったりした。そんなこんなで赤字だったもんで福井君という共謀者とふたりで高田馬場の駅前にあった学生ローンで金を借りたりした。さらには、そのマネージャーに雇われた。ワタシは生活向上委員会のマネージャーのアシスタントのようなボーヤのような仕事を始めたのである。生向委のファンクラブの新聞の編集も担当しました。

 1980年のことだ。RCサクセションが歴史的名ライヴ盤『ラプソディー』を出した年である。久保講堂へよォーこそ、である。そしてそのRCのホーンセクションを生活向上委員会が担当するようになったのである。そう、梅津和時さんと片山広明さん(他)の今でも忌野清志郎さんのライヴでおなじみのメンバー。だからマネージャーのアシスタントのようなボーヤのようなワタシは、RCサクセションの楽屋にサックスを運んだり、梅津さんに囚人服の衣装を渡したりしていたのである。その時の楽屋仲間が三宅伸治さんである。彼はチャボさんのギターとか運んでた。

 もちろんRCサクセションのファンでもあるので、猛烈に嬉しかった。給料は安かった。でも、いっぱい飲めた。朝までどころか昼まで飲んだりしてた。当時の彼女もファンだったのでライヴも行った。ま、別れましたけどね。ついでに腹膜炎も患って死にそうになった。ホント、いい事ばかりはありゃしない。
 その後、ワタシは月刊誌だった『宝島』の編集部にもぐりこむ。今度は取材で頻繁に清志郎さんに会うことになった。ライヴには招待で入れてもらえることになった。RCがどんどんでかくなった時期で、そのことに興奮していた。宝島主催で清志郎さんと憂歌団のイヴェントもやった。あ、忘れていたけど、アケタさん、生活向上委員会と続いた学祭参加は、最後の年に憂歌団を呼んだのである。これは人が入った。儲かった。でも打ち上げの暴飲と前年から続いていた学生ローンの返済で消えた。

 数年して「ボスしけてるぜ」と言ったことが原因で宝島をクビになってからは、ご無沙汰することが多くなっていたのだが、2000年には忌野清志郎30周年記念イヴェント『RESPECT!』で豪華箱入り限定パンフレットの編集とCDのジャケット制作を担当させてもらった。某TOKYO FMのイヴェントで佐野元春さんと競演した時には選曲と演出のお手伝いもさせてもらったし(伝説残したけど)、某FM802の『続ナニワ・サリバン・ショー』では忌野清志郎パートの構成を担当させてもらった。もう大人だったけど嬉しかった。

 今思えばあっと言う間の27年。でも、駆け足で振り返ってみたって濃いのである。もちろん友だちなわけではなく、ちょっとした知り合いというわけでもなく、こっちから一方的にリスペクトする、やっぱりココロのボスなのである。

 ワタシは忌野清志郎さんから何を学んでいるのだろう。それはやっぱり自由ということじゃなかろか。選ぶ権利はオレにある、という心意気ではなかろうか。忌野清志郎の選択の自由。それは「誰かのご都合のためにオレを曲げてまでいうことは聞きたくない」といった矜持である。ROCKを選ばせろ。やり方を選ばせろ。平和を選ばせろ。今回のボスの選択は長期治療だ。

 ま、たまにはね、こういう話を誰かに聞いてもらいたいわけですよ、オヤジだから。
 早い復帰を祈ってます。


(2006年7月@J-WAVE e-STATION TASKBAR)


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