渡辺和博さんのことを書きます

代替文


 渡辺和博さんに最初にお会いしたのは1981年のことになる。当時「宝島」編集部にバイトでもぐりこんだワタシは、内藤(栃内)良さんの連載「ねえ、体験しない!?」の担当になったのである。バイトなのに連載の担当なのである。しかも「VOW」とかを含めれば全部で30ページぐらい担当なのである。だって編集部って3人しかいないのだから。その「ねえ、体験しない!?」のイラストを渡辺さんが描いていた。したがって同時に渡辺和博担当にもなったのである。


 ワタシは高校の頃からの熱心な「ガロ」読者だったので、もちろん渡辺和博さんのファンでもあった。面白かった。大好きでしたね、ナベゾの漫画。たらこ筋肉毒電波。その渡辺さんが実は「ガロ」の編集者でもあったというのは後から知った。南伸坊さんの後輩なのである。当時、漫画の持ち込みをしたみうらじゅんさんに「こんな絵じゃダメだ」とダメ出しをした、という話はみうらさんから聞いた。みうらさんの今の画風は渡辺さんのおかげのようなところもあるのである。ワタシは「ガロ」の編集部に入ってもおかしくない、それぐらいマニアックな大学生だったのだが、後で聞いたらホントに入らなくて良かったのである。


 「ねえ、体験しない!?」は、早い話がナンパ小説(でもほぼ実話)。セックスの面白おかしい赤裸々な描写が評判だった。原稿(もちろん手書き)が内藤さんからあがると、それを渡辺さんに伝えてイラストを描いてもらうのがワタシの仕事である。どうやって伝えるかと言えば、電話口でその原稿を読むのである。なぜかと言えば当時はFAXがなかったから。
「あ、宝島の渡辺ですけど、渡辺さんですか」「ああ」「あの、今月分なんですけど……聞いてます?」「ああ、聞いてるよ」「ナンパに失敗した男がですね、自分でフェラチオを試みるっていう話でして、じゃあ読みますねえ……」(以下省略)


 こうやって10分ぐらい、編集部の電話(当然ダイアル式)でエッチな描写を読み続けるわけで、今だったらゼッタイに同室の女子編集者にセクハラで訴えられているようなやりがいのある仕事だった。雑誌「写真時代」も大好きだったので、渡辺和博さんとエロい仕事をするのは名誉のような気がしていた。
 その連載終了後は景山民夫さんの連載でもイラストを描いてもらった。


 締め切りの日にはイラストを電車で取りに行く。なぜならスキャンどころかメールどころかバイク便もないのだから。行くと渡辺さんはイラストを描き始める。事前には描いてないことが多かったような気がする。できたイラストから「あい、コレ」という感じで渡して、ワタシに消しゴムをかけさせる。ペンが乾いてないと失敗するのでドキドキである。


 そうこうしている内に渡辺和博さんはどんどん有名になって、どんどんイラストを描くようになって、文章も書くようになって、「いいとも」にも出て、ユーメー人になって、さらに神足裕司さんと「まる金・まるビ」で有名なベストセラー『金魂巻』なのである。


 渡辺さんは、ちょっと意地悪な切り口の人だったので、ワタシが1985年末に「宝島」をクビになった時にはわざわざバイクでやってきて「あんたさあ、いつまでも社員辞めないからバカかと思っていたんだけど、バカじゃなくてよかったよ」とクチのはじっこでニガ笑って帰っていった。自分も青林堂にいたからかもしれない。


 仕事が直接なくても電話をよくかけてくれた。映画『ゆきゆきて、神軍』が話題になった時には、「あのさあ、映画で着てるYUASAバッテリーの赤いジャンパー売ってるとこ知らない?」と電話してきた。知ってるわけがないので半分冗談なのである。ワタシが三宿ドゥ・ザ・モンキーの事務所を構えた時には、いきなり電話口で「タスクさあ、三宿とか仕掛けようとしてんの?」って言われた。家賃が安かったから借りただけで、仕掛けるとか思ってるわけがないので全部冗談なのである。お洒落な人だったのである。三宿がこんなにメジャーになった今となっては「仕掛けた」ことにすればよかった。


 そういえば、「服はさあ、全部BEAMSで買えばいいんだよ」と言われたのも覚えている。


「ガロ」の長井さん(青林堂社長)のパーティーでもお会いした。「ガロ」ファンだったワタシには夢のオールスターパーティーだったのを覚えている。その時ではないけれど、あるパーティーでお会いした時は、「こういうところのメシって不味いからさあ、これ食べれば」と言って、なんかの缶に入れて持参した「焼き海苔」をくれた。意地悪でいたずらでお洒落の人なのである。


 しばらくお会いできなかった。26歳の時に「バカじゃなかった」と笑われて21年だ。また叱られてみたかったな。……うーん、そうでもないか。合掌なのである